その日僕は小説の中で生きると決めた

うつし世はゆめ、よるの夢こそまことーー乱歩

季節外れの花火の話

「光の残滓」
って
とっても素敵な単語だと思うんです。花火が上空に舞ってひらひらと輝きながら散っていく光のカケラ。
私は煙と人混みが苦手なのであまり花火大会のような自分の首を絞める場所へは足を運ばないのですがそれでも、花火大会でしか味わえない花火の臨場感を肌に感じたくて夏はうずうずしますね。数年に一度浴衣をきて花火大会へ足を運びますが、間近で見る花火はやっぱりテレビや映像或いは小説の中で自分の脳内プロジェクターから発せられる映像とは比べ物にならないくらい心に響いてきます。あの音、光、振動、すべてが計算し尽くされた作品のようで。そして中でも私はパラパラパラ…と散っていく光の残滓が好きで好きで、そちらにばかり目を向けていました。光が闇夜に舞って、はらはらと散っていく…なんというもののあはれ。「花火のように大輪を咲かせる人生にしたい」と思ったことはありませんし寧ろどちらかと言えば表舞台には立たずにひっそりと自分の生活を片手で数えられる程度の大事な友人と家族と恋人、そんなかけがえのない人々に囲まれて過ごし、最期は彼らのスクリーンに大輪を咲かせる人間で在りたい、と思う根暗属性ですが、「我が人生に一遍の悔いなし
」と言って夜空に散る花火になりたい、そう思ったことは多々あります。尤も、そんな台詞はどこかで耳にしたものだし、そこまでバイタリティのある人間ならすぐには死んだりしないだろうけれども。

さてところで悔いのない人生って何でしょうか。

私は自分の価値観で言えば、「死」と言うのは、自分の生まれた目的を達成できたことを意味すると思っております。精神世界は目に見えないものですから興味は二極化すると思います。かつてのベルリンの壁のように、双方の意見は相容れないかもしれないのでご興味のない方はもといた位置にお戻りください。
ここでは意味を成さないので私の読書の嗜好については割愛致しますが、沢山のスピリチュアル及び自己啓発、並びに精神世界に関する書籍はここ数年読み漁ってきたつもりです。
そして、それらの書物から得た知識としては「人は生まれながらにして、達成すべき目的をもっている」ということ。詳しくは別の機会にお話するので割愛致しますが、誰もが目的をもってこの世界に命を受けるようです。そして、目的を達成できたら、もとの世界に帰還するのです。謂わば、この世はあの世で、あの世がこの世なのです。 ですので、どう生きようと、魂を成長させ、自分の目的を達成するまでの短い短い旅が現世であるこの世、という意味なのですね。
成る程そう考えると、近親者の死も切なく思う気持ちが緩和されます。
私には去年亡くなった祖母がいます。元気な頃は趣味もあり、庭で野菜を育てたり、詩を読んだりと、毎日幸せに過ごしていました。しかしながら悲劇のヒロイン要素もかなり兼ね備えた性格で、度々私と母は悩まされたものです。そんな祖母が癌になり、しかも発見された癌はもう末期で余命1ヶ月程度でした。親族は、祖母が出来るだけ負担を感じずに毎日を過ごせるよう努めました。お姉さんやお兄さん、親戚に会える機会を沢山作るように努めました。そうすると、祖母が、自分は常に満たされていないと言っていたような祖母が、言ったのです。「私は、本当に、幸せだよ」とーーー
それから間も無く祖母の意識は混濁し、まともに会話はできなくなりました。


臨終には立ち会えませんでしたが、祖母は83年の人生で何を学びどのような人生を歩んだんだろう、と実家に向かう特急列車の中で思いを馳せました。
たくさんの人に支えられてたくさんの人に愛されて生きていたこと、それは祖母の人生のうちの、1/4程度しか一緒に過ごしてこなかった孫にも伝わってきました。きっと祖母も心からその事実を自発的に知ることが出来、幸せを感じることが出来たからこそこの世での目的を達成し、大いなる存在の元へ帰って言ったのだろう、という私の私見です。

私はまだまだ未熟ですしスーパーで年齢確認されるような子供ですが、命の花火が完全に消える瞬間まで、私という存在を、大切な人々の心に燃やし続ける存在で在りたい、と切に願いました。

きっとそれが、私の「目的」を達成した集大成となると思う、ので。

いつまでも誰かのスクリーンに舞っている光の残滓で在りたいです。


"闇夜ほど星が綺麗なこと、
ねえ、知ってる?"

はじめに

 誰が見てくれているのか分からないような、或は誰からの気にも留められないようなサイトで「はじめまして」は気が引けたから独りよがりの序章を綴ることにする。

 

 勿論小説を読むことは好きだし、小説家に憧れはあるけれど別に小説家になりたい訳ではなくて、端的に言えば逃避の場所が欲しくて、四角い世界に飛び込んだのです。(うん少しカッコよさそうな表現をしたかっただけだよ、サイトを作った、ただそれだけのこと。)だから、本当に独り言を好きなときに好きなだけ呟いておく、言わば私からこぼれ落ちた思考の破片をスクラップしておくこと。それがこのサイトの存在意義。素性が分からないから何でも好きなことを好きなように表現出来るね。なんて素敵で恐ろしい可能性を秘めているんだろうね。尤も、危険を冒すようなことは書かないし書けないし書く気もないけど。

 

 ところで、働くってなんだろうね。

 

 最近頻繁に考えを巡らしていること。はたらく、ということ。お金を稼ぐこと、でもそれは結果でしかなくて、直接的な答えではなくて。だって労働の対価としてお金を貰うのだから。10代の頃は、働く、っていうのは「自分の時間を換金すること、或は命の切り売り」だと考えていたけど。今思うとなんて生意気な10代なんだろうとぞわぞわするよ。けれども、アルバイトなんかが顕著だけれど、自分の命のうちの1時間をざっくり1000円で売ってる。接客や其の他諸々自分にしかできないものを価値として提供している、それはほんとのことだと思う。けれどもそれらは付加価値であって「命」に上乗せされたもの、そういう風にしか捉えられなかった、ついこの間までね。嘘じゃないよ、意外と若いんだ私は。

 

 だって、働いて疲れて家に帰ってきて不満を垂れて一杯のワイン(ビールは飲めないんだおこちゃま舌だからね)で自分をなぐさめて「はあ明日もお仕事だ」と次の日の朝スーツに袖を通すまでの、つかの間の自分の時間さえも疲れに包まれて過ごして倦怠感に抱かれて眠る、それって人生まるごと売っているんじゃないの?自分の人生、すべてを誰かに預けて管理されてるんじゃないの?それってどうなのかなあってずっと思ってたよ。

 

 そこには、10代の私には気づけなかった、薄い氷みたいに思考の海を覆っていた大前提があったんだ。

 

 「会社員であることが唯一無二の正解、なのだから」

 

 それがいちばん きちんとした りっぱな すがた 。

 

 そう在るべきっていう暗黙の了解的なものが、気づかないうちに私の思考を包んでいたんだ。ずいぶんと偏っていたように思うよ。だってそれが唯一神のように思っていたんだからね。尤もそれは偶像崇拝だったわけだけど。

 勿論会社員の方は立派だと思うし私の出来ないことを沢山されていて尊敬もする、けれどもどうしても、私は「雇用される」ということに対して「私自身が大きな組織の中のひとつの部品として動く」という想像から抜け出せないでいる。部品になることが働くということなのかな、小さな部品なら取り替えだってできるんだから・・・

 けれどそんな結論に達してセンチメンタルになっていたある日、自己啓発系の書籍を手に取ってみたら「自分自身であることが私の仕事」と書いてあったわけです。

 なるほどなあ、としか思えなかった。でも、とかだって、とかそんなこといったって、とか、そんな言葉は出てこなかった。水面の氷がじんわり溶けて温かい海水が砂浜に向かって前へ前へって流れて行った感覚、とにかくストン、って胸に落ちてきた。僕が僕である云々(割愛)は、なるほど的を射ているわけです。耳に残るよねあのフレーズ。そして声も良い。閑話休題。じゃあ、「私が私である為にしなきゃいけないことって何だろう」って考えたんですけどこれまたシンプル。シンプルすぎて拍子抜け。

 

 「好き、だけを選択すること」

 

 好きな服装、好きなメイク、好きなライフスタイル、好きな食べ物、好きな言葉

だってそれが私なんでしょう?私が私である為には、私を好きなもので満たすしかないでしょう?無理矢理部品になる為に捨ててきた「私」は、心のゴミ処理場で泣いているんじゃないのかな、痛いとか言わないでねここは自由なんだから。

 まあ、生意気だとかそんな甘くないとか思われよーが言われよーがなんでも良いけど「私には私にしか出来ないことがたくさんあるし私にしか提供出来ない価値がある、【私】の構成要素の一つでも欠けたら【私】は完璧ではなくなってしまうのだから無理矢理誰かの意図戦略思惑によって鋳型にはめないで。」って最近強く思うようになりました。量産型ではなくて、自他ともに認める【私】のスタイルが確立出来たらお仕事は順調だと思ってオッケー。そのお仕事は自分が永い永い眠りにつくその日まで続いて行くのだから。

 

 そういった意味で、私は小説家に惹かれる。

 

 作品には作家の思考や生き様や価値観が反映されていて、その人にしか作り出せないもので。それまでの人生、生き方、理想、全てを含有して「小説家」という生き方なんだと思う。あまり私は絵画には詳しくないから何とも言えないけれど、きっと画家もそうなんじゃないかと思う。画家だったら私はルソーが好きなのだけれども、それもまた彼の人柄や暖かい人生を感じられるから。「世界は優しい」、そう教えてくれたのはルソーの絵や彼に関する書物でした。

 

 生き様が仕事。

 そう胸を張って言えるような人間で在りたいです、

 

 そんな目標を達成する為に思考のスクラップブックをここに作りました。いつか見返して赤面したり、はたまた腹を抱えて笑うかもしれないけれど、私は「仕事」を生涯かけて達成することにします。

 

2017年10月 茉莉花